
音として真剣に問うことが必要であろう。その点からいえば、「全国青年の家協議会」の地道な研究・調査と討議の努力に敬意をはらいたいし、その成果に期待したい。
■官性と私性を超える公(おおやけ)性
さて、公的事業としての「青年の家」の質を考えるにあたっての一つの方法として青年の家の社会的性格について考えたい。
家庭教育は個別の特定された閉鎖系の教育機会であり、学校教育は法律で規定された普遍的な開放系の教育機会である。そのことは、家庭が私的領域に学校が公的領域に置かれていることを意味する。
この観点からすると、「青年の家」は、国や自治体が設置し法律や条例などによって保護、規定されているので、普遍的な開放系の教育機会であり、公的領域に位置することに疑いをさしはさむ余地はない。ちなみに、民間立の青少年教育施設は、設置者である主唱者や団体の目的によって、特定の教育主張に立脚している場合があり、その利用形態は開放的であったとしても、運営管理方針においては閉鎖系であることが認められてよいであろう。
ここで、「青年の家」のもう一つの社会的側面についてとりあげたい。それは、包含理論としての生涯学習の主要な柱である社会教育の中に置かれる青少年教育を行うという機能である。青少年教育には、民間団体によって実施されるものと公的機関によるものとがあり、家庭教育と学校教育のいずれの領域にも隣接しつつ独自の領域を持つ教育的機会である。家庭教育の個別性と学校教育の普遍性のいずれをも含めつつ、さらにそれぞれの特性から離れることが可能な教育の機会が青少年教育の目的である。
青少年教育は、家庭や学校で果たすことのできない教育を担うという意味では補完的教育であり、新しい教育目標を持つという面からすれば先導試行教育である。
以上の論点を要約すると、「青年の家」は“普遍的な開放系としての青少年教育の機会”であるといえる。このことは「青年の家」が‘‘官性と私性を超える公(おおやけ)性”という性格を与えられていることを明らかにしている。
一般化された意見とはいえないが、官と公は同じ概念ではないと考えたい。“官”は個人の生活と生涯を護るために必要な国と社会の維持運営を国民から委託された社会システムを意味する。“公”は“官”と“私”を維持し支援し評価する“私”の社会的貢献の機会とシステムを意味する。
官性と私性という二つの性格は、しばしば対立、緊張、背反を招く異質の存在として表面化することが多い。たとえば、「青年の家」で若者たちが生活する場合、活動の時間・方法・場所の選択において、運営管理基準の順守と利用者としての要望が衝突することがある。それは“近ごろの若者は社会性に乏しい”または“施設側は官僚的で頭が古い”という双方からの非難をもたらす。たしかに今でも一部の施設では、未だにこのような状況があることは否定できないが、「青年の家」の実態は大きく変化しようとしている。
その変化は、官性と私性を認めつつ、青少年教育の機会としての「青年の家」の“公(おおやけ)性”をどのようにすれば確立できるかについての当事者の努力として認められる。したがって、今後の具体的な課題は「青年の家」の目的・目標にそった運営管理と青年の成長体験
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